できるヤツは #マドリードで一旗揚げる! そんな #KETAMA の歌を聴いて「私も!」とマドリードへ向かってしまった亜哉子・・・ さて #マドリード で一旗揚げることはできたのでしょうか?
私がマドリードにいた時期は、EUが誕生した2000年を挟んだ頃でした。スペインの通貨はペセタからユーロに変わり、その後次第にスペインのバブルは弾け、物価が上昇していくのですが、これはまだバブルが始める前のマドリードのお話です。
マドリードは、全ての音楽や文化に両手を広げて受け入れてくれるようなオープンで華やかな街でした。街を歩けば、フラメンコ、ジャズ、ブラジル音楽etc…が、聞こえてきました。
60年代から沢山のタブラオが設立され、全国各地から実力アーティストが集まり、しのぎを削っていました。
地方出身の伝説的ロマの歌い手、カマロンや、1922年にグラナダで行われたスぺイン初の歌のコンクールで賞を取ったマノーロ・カラコルもマドリードで成功を収めていた時代です。
90年代初めには、現在のフラメンコ界の重鎮と呼ばれる人たちがデビューした頃で、キラキラした5人の踊り手、アントニオ・カナーレス、ホアキン・グリロ、クリストバル・レジェス、ホアキン・コルテスが、グループを組んでマドリードのタブラオを沸かせていました。
ソロ公演で十分お客さんが入るキラキラアーティストが一度に見れたのですから、なんと贅沢な時代だったんでしょう!
グラナダにいた時からやっていた夜のフラメンコパトロールは、マドリードでも週2くらいで続けました。
パトロールのために、有名ペーニャ(フラメンコ民謡酒場)や、有名タブラオ(フラメンコを専門に見せるレストラン)のある地区のド真ん中にアパートを借りましたが、都会の家賃は高かったので、当然シェアアパートを利用していました。
その頃のマドリードは、私にとっては、もうハリウッドのようでした。
グラナダに住んでいた時にテレビでずっと見てきたアーティスト達と、普通にスタジオや、バルやタブラオで毎日遭遇できたのです!
友達や知り合いは皆無でしたが、フラメンコパトロールを続けることでペーニャやタブラオのオーナーと顔見知りになり、コラール・デ・モレリアというタブラオのオーナー(現在は違う方がオーナーです)は、いつでも来て良いと行ってくださり、私は週1くらいでショーを見せて頂いていました。
マドリードデビュー!?
そしてなんとある日
舞踊団員として国内外の公演に出演することが出来たのです!!
さらに、マドリードに滞在して1年ほどしたころ、老舗のタブラオのカサ・パタスでマドリードのタブラオで踊るチャンスもいただきました!!
これはと〜っても貴重な体験でした。
というのも…
「マドリードのフラメンコは、舞台に立つ側のお客様もアンダルシアとは全く違う」
ということを痛感したからです。
マドリードのフラメンコは、歌もギターも踊りもアンダルシアとは違っていました。
「違っている」というと語弊がありますね…。
あくまでも、伝統、基本は同じなのですが、それらをしっかり身につけた全国各地のアーティストが凌ぎあいをするうちに、各自の特徴を消さないように進化、洗練されているというのが一番しっくりくる表現ですかね。
私もその波に自然と乗って勉強してみました。
貴女の踊りのスタイルには合ってないんじゃない?と、言われてもなんのその。
亜哉子マグロは止りません。
楽しくてしかたなかったのです。大体自分のスタイルが、何かもまだわからないのですから、なんでも勉強できるものはしようと思っていました。
とにかく食べ物もフラメンコも食わず嫌いはもったいないというのが私の性分です。
そして今でも、物事をジャンル分けするのは便宜上の事で、全ての事は、基本、伝統からの延長線上にあると考えています。
いよいよタブラオへ!
さあ、マドリードのタブラオデビューの日を迎えました。私にとっては今まで踊ったことのない洗練された感じの曲を2曲用意していざタブラオへ!
私は緊張してしまう性分で、この日も例に漏れずド緊張した状態でショーはスタートしました。
一番最初の踊りの「決め」の部分で失敗したわけではないのですが、「ぬるっ」と踊ってしまいしました。
さて、今までのグラナダで踊った時は、そんな時も、観客は拍手をしてくれました。
しかし、マドリードでは、、、恐ろしいことに、その日、タブラオは満席でしたが、拍手はひとつもありませんでした。この瞬間、ああ、私は、初めてマドリードで踊ることの責任に真っ青になりました。多くの一流アーティストを見る機会が多いマドリード。観客の目も肥えているので、合格点ぐらいでは拍手はくれません。
「何の芸を見せてくれの」
「沢山あるショーの中から、選んで、お金を払ってここにいるんだよ」
とその視線は強く語っていました。
結局、この曲は、終始ボロボロで12分が永遠に感じました。
私が動揺しているので伴奏の皆にも不安が移ってしまい、ほぼ皆を巻き添いにした出来の悪い、恐ろしい想い出の曲となりました。
曲がなんとか終わり、普通拍手の中、お客様にお辞儀をしますが、私は、幕に入ったまま、出ていけませんでした。
15分休憩は、着替えをしなくてはいけませんが、このまま泣いてどこかへ消えてしまいたい気持ちはありました。でも、それは出来ないことも知っています。
私は、誰とも喋らなかったと思います。ただ着替えをして、2幕を待ちました。
次はどうやって踊ろう、とか、作戦すら思い浮かばず・・・
今思い出せることは、足がとても痛いのに、目の前には、どうしても登りたい山がそびえ立っているという感情だけです。
悔しくて…登りたくて…諦めきれなくて…
そんな思いが、偶然、集中に繋がったのかどうかわかりませんが、次の曲の私は自分でも別人でした。最初の踊りの決めの部分がバッチリ決まった時も、決まった!とは考えませんでしたが、タブラオ全体からの拍手と「oleee !」(いいぞ!) の声が聞こえ、それからは、ジェットコースターに乗っているがごとく曲が展開していき、踊りを、この瞬間を楽しんでいる私が居ました。
気が付いたら、ショーは終わっていて、アンコールへの拍手も鳴りやまず、やっと我に返って、伴奏の人達の顔を見たら、皆の顔は大満足の合格点以上の笑顔を私に向けてくれていました。
このタブラオでのショーで伴奏をしてくれていた歌い手さんやギタリストさんには、よく声をかけてもらい、マドリードのペーニャやタブラオなどのお仕事に呼んで頂けるようになりました。
ハリウッド マドリードは怖くもあり魅力的でもある場所!
マドリードには、各地方に存在する民謡に魅力的なエンターテーメントの要素が加わり洗練されていくようなフラメンコがたくさん存在します。
もともとの音楽をきちんと理解していないと、簡単にできることではありません。つまり色々な音楽を聴いていないと出来ないことです。各地方の民謡もそれにエンターテイメント要素を加えるものも、どちらも尊いものです。
マドリードでそれを体で感じ、理解できた事がとても大きかったです。
そして、仕事に呼んでもらえるようになったからと言って、油断は禁物です。
日本にたとえて言えば、外国人が歌舞伎の世界に居るようなものです。
上手くやっても、失敗しても、物凄く目立つのです。そして、失敗した時には声がかからなくなるだろうという緊張感は常にありました。
代わりの踊り手は星の数ほど居るのですから…
次回は「マドリード(後編)」、フラメンコ界伝説の魔物(良い魔物)、ドゥエンデが、私にも降りてきた?という体験! THE FLAMENCOにとってのキーパーソンの一人、舞踏家、柴崎正道さんとの出会いをお話します。
To be continue
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